川の流れと発展の歴史を辿る
こんにちは!広報特派員Aです🙋
たまに公園を抜け出して周辺地域の魅力スポットをご紹介するおさんぽブログ、第4回目をお届けします
たまに公園を抜け出して周辺地域の魅力スポットをご紹介するおさんぽブログ、第4回目をお届けします
「国営木曽三川公園」とはその名の通り、木曽三川:木曽川・長良川・揖斐川ののびやかな景観を楽しめる国営公園で、木曽三川流域に13拠点が開園しています。以前のおさんぽブログでヨハネス・デレーケによる三川分流工事をご紹介いたしましたが、現在の川の流れはもともとの流路とは異なります。
今回は、かつての川の流れを辿りながら、織田家のルーツを中心に様々な歴史を辿ってきました。
今回ご紹介する場所はこちら
スタートの地は「勝幡(しょばた)駅」
今回は、この地域の歴史に詳しい、愛西市観光協会理事 若山聡氏に案内していただきました。
勝幡駅には、勝幡の地とゆかりのある人物として、織田信秀と土田御前に抱かれた幼少期の信長の銅像が設置されています。
戦国時代の英雄・織田信長は、近年の通説では勝幡城で生誕したと言われているそうで、信長の幼少期時代・吉法師の姿を見ることができます。
今回は、この地域の歴史に詳しい、愛西市観光協会理事 若山聡氏に案内していただきました。
勝幡駅には、勝幡の地とゆかりのある人物として、織田信秀と土田御前に抱かれた幼少期の信長の銅像が設置されています。
戦国時代の英雄・織田信長は、近年の通説では勝幡城で生誕したと言われているそうで、信長の幼少期時代・吉法師の姿を見ることができます。
勝幡駅近くには、勝幡城址の石碑が設置されています。
信長の祖父・信定が築き、信長の父・信秀と信長親子生誕の地と言われる城です。
この勝幡城を起点に、当時伊勢湾に近かった木曽川河口に臨む港と津島牛頭天王社(現・津島神社)の門前町として繁栄していた津島を掌握し、織田家の勢力拡大が始まりました。
信長の祖父・信定が築き、信長の父・信秀と信長親子生誕の地と言われる城です。
この勝幡城を起点に、当時伊勢湾に近かった木曽川河口に臨む港と津島牛頭天王社(現・津島神社)の門前町として繁栄していた津島を掌握し、織田家の勢力拡大が始まりました。
続いて向かったのは津島神社。
津島神社は津島牛頭天王社として西暦540年に鎮座し、疫病退散を祈る神社として現在まで「津島さん」「天王さん」と広く親しまれてきました。
織田家の家紋「織田木瓜紋」は津島神社の社紋と同じ「木瓜紋」(もっこうもん:キュウリの断面に似ていることから“きうりもん”とも)を使っているそうです。
疫病を追い払うことで有名な津島神社は、文化財としての貴重な価値もあります。
・本殿:国の重要文化財
尾張(現在の清須)に拠点を置いていた織田信長が天下統一のために出ていき、尾張の統治は代わっていきます。関ケ原の戦いの後、徳川家康の4男・松平忠吉が統治しましたが、病気になってしまいます。この際、松平忠吉の妻が回復祈願で寄進したのが津島神社の本殿なのです。結局松平忠吉は亡くなってしまい、家康の9男・徳川義直が初代藩主として尾張を統治しました。
津島神社は津島牛頭天王社として西暦540年に鎮座し、疫病退散を祈る神社として現在まで「津島さん」「天王さん」と広く親しまれてきました。
織田家の家紋「織田木瓜紋」は津島神社の社紋と同じ「木瓜紋」(もっこうもん:キュウリの断面に似ていることから“きうりもん”とも)を使っているそうです。
疫病を追い払うことで有名な津島神社は、文化財としての貴重な価値もあります。
・本殿:国の重要文化財
尾張(現在の清須)に拠点を置いていた織田信長が天下統一のために出ていき、尾張の統治は代わっていきます。関ケ原の戦いの後、徳川家康の4男・松平忠吉が統治しましたが、病気になってしまいます。この際、松平忠吉の妻が回復祈願で寄進したのが津島神社の本殿なのです。結局松平忠吉は亡くなってしまい、家康の9男・徳川義直が初代藩主として尾張を統治しました。
・楼門:国の重要文化財
豊臣秀吉が寄進
・南門:愛知県の重要文化財
秀吉が病気の時、回復を願い息子・豊臣秀頼が寄進
豊臣秀吉が寄進
・南門:愛知県の重要文化財
秀吉が病気の時、回復を願い息子・豊臣秀頼が寄進
かつて津島神社は佐屋川と天王川に挟まれた向島に位置していましたが、津島市にあったかつての入江は、現在は天王川公園に残る池のみとなりました。津島神社のすぐ近くに天王川公園があります。
天王川は江戸時代までは津島の町の中央を流れていましたが、河川改修により入り江となり、やがて「丸池」となったのだそうです。
天王川は江戸時代までは津島の町の中央を流れていましたが、河川改修により入り江となり、やがて「丸池」となったのだそうです。
天王川公園は、四季折々の花が楽しめる散策のおすすめスポット🙌
この公園では、毎年7月に津島神社の祭礼・尾張津島天王祭の車楽舟(だんじりぶね)行事が行われます。
祭の時期になると堀に水が入り、船の上に山車(だし)が乗った車楽舟を見ることができます。
このお祭りを私も一度見てみたいです✨
毎年「藤まつり」が行われる藤棚の花は、まだまだこれからのようでした
(満開の写真は津島市ホームページから
https://www.city.tsushima.lg.jp/shokai/matsurikyoudo/fujimatsuri/fujimatsuri.html)
(満開の写真は津島市ホームページから
https://www.city.tsushima.lg.jp/shokai/matsurikyoudo/fujimatsuri/fujimatsuri.html)
佐屋川を下っていくと、「佐屋三里の渡し跡」があります。
第二回目のおさんぽブログでは東海道五十三次の熱田・宮宿から桑名宿を結ぶ海路「七里の渡し」(東海道制定1601年)をご紹介しましたが、今回は川の航路「三里の渡し」です。船酔いのため七里の渡しの海上路を嫌った徳川三代将軍・家光のために、熱田から陸路で佐屋へ、佐屋川・木曽川を渡り桑名へと続くルートができました。この時の佐屋宿から桑名宿までの水路の距離が三里(約12km)だったようです。
七里の渡しを使うよりもちょっと遠まわりですが、欠航や船酔いの心配が減ることが好まれたようです。
江戸時代にあったキコク(ミカン科の植物カラタチの別名)の生け垣は現在もなお残されています。すぐ向こうはかつて大河だったことになりますが、現在の街並みからは想像できないですね、、、
さらに南下すると、道の駅立田ふれあいの里のすぐ横に「古木江(こきえ)城」跡を見ることができます。この地域は信長の弟・信興(のぶおき)が統治していました。後に、この城は一向宗信徒に攻められて長島一向一揆の蜂起点ともなり、信興は自害に追い込まれました。
弟を打たれた信長の憎悪もあり、最後は大虐殺につながったとも言われているそうです。
長島一向一揆は歴史の授業でも必ず出てくる重要なテーマですよね。
余談ですが、学生時代、ちょうど日本史の勉強をしていた試験日前の帰り道、地元の商店街の布団屋さんの看板「布団“一式打ち直し”」が一瞬「一揆・打ち壊し」に見えたことがありました、、、試験の結果は覚えていませんが、その見間違いだけは今も鮮明に覚えています😅
余談ですが、学生時代、ちょうど日本史の勉強をしていた試験日前の帰り道、地元の商店街の布団屋さんの看板「布団“一式打ち直し”」が一瞬「一揆・打ち壊し」に見えたことがありました、、、試験の結果は覚えていませんが、その見間違いだけは今も鮮明に覚えています😅
本題に戻りまして、信長率いる武家勢力と対立していた一向宗徒は、長島一向一揆の際、桑名長島の願證寺に集まりました。
願證寺の跡地は明治時代の木曽三川分流工事で川底に沈んでしまったため、現在は見ることはできないものの、明治改修の歴史については解説看板が設置されています。
国営木曽三川公園の拠点のひとつである「カルチャービレッジ」そばの長良川堤防です。
願證寺の跡地は明治時代の木曽三川分流工事で川底に沈んでしまったため、現在は見ることはできないものの、明治改修の歴史については解説看板が設置されています。
国営木曽三川公園の拠点のひとつである「カルチャービレッジ」そばの長良川堤防です。
最後に、国営木曽三川公園の一拠点、カルチャービレッジについてご紹介します。
芝生や大きな遊具で遊べる広々とした公園で、多目的運動場「輪中ドーム」で様々なスポーツを楽しむこともできます。
ケレップ広場では、オランダ式のケレップ水制(水制:水の作用から堤防を守るために流れを変えたり勢いを弱くしたりする工作物)の構造を見ることもできます。
遊びも学びも充実している施設です。1日のんびり過ごせる公園ですので、ぜひお立ち寄りください🙌
芝生や大きな遊具で遊べる広々とした公園で、多目的運動場「輪中ドーム」で様々なスポーツを楽しむこともできます。
ケレップ広場では、オランダ式のケレップ水制(水制:水の作用から堤防を守るために流れを変えたり勢いを弱くしたりする工作物)の構造を見ることもできます。
遊びも学びも充実している施設です。1日のんびり過ごせる公園ですので、ぜひお立ち寄りください🙌
春は散策にピッタリの季節
歴史を辿ったり、花を巡ったりする中で、ぜひ木曽三川公園にも遊びに来てくださいね✨
最後まで読んでいただきありがとうございました。
歴史を辿ったり、花を巡ったりする中で、ぜひ木曽三川公園にも遊びに来てくださいね✨
最後まで読んでいただきありがとうございました。
以上、第4回目のおさんぽブログでした!